真田丸;真田幸村(信繁)の武勲と年表



1567年:甲斐の武田信玄家臣、後の信濃国上田城主・武藤昌幸(真田昌幸)の次男として生誕。

1575年:長篠の戦で武田勝頼が大敗し、父の兄2人が戦死して父が家督を継ぎ、信濃の上田に移る。

1582年:天目山の戦で武田勝頼が自害し、織田信長に降りる。本能寺の変で信長死去、後ろ盾を失って、北条氏直に下る。その後、徳川家康に寝返る。北条・徳川の結託の際、徳川より沼田を北条氏に返すよう命令されたが拒絶し、上杉景勝配下になる。信繁は上杉家で過ごす。

昌幸の離反に激怒した家康は、真田討伐の為、上田城を攻める。鳥居元忠、大久保忠世らの徳川軍7000に対し、昌幸は2000の兵と領民と共に上田城に籠城。おとりの兵に敗戦を演じさせて、大軍を上田城二の丸に攻め込ませ、一斉に鉄砲を撃ちかけ德川軍をいっきに殲滅する。(上田合戦)

1585年:主家を豊臣氏とし、幸村は秀吉の元で過ごす。

1590年:小田原城攻めで前田利家の与力として武功を立てる。

1591年:大谷吉継の娘と結婚。

1598年:秀吉没後、家康に従う。

1600年:石田三成挙兵と共に、父昌幸と西軍につく。真田家存続の為に、兄の信之は東軍についた。戦後、兄信之の嘆願で、父と共に高野山謹慎処分。その後、紀伊国へ移される。

1614年:(大阪冬の陣)豊臣秀頼の要請で、大阪城に入城。小幡景憲の進言で籠城策が取られた。(小幡は徳川方の間者であった。)幸村は、大阪城の弱点玉造口に出城(真田丸)を築く。武田流築城術の丸馬出という半円形のもので、南北221m、東西142mの規模。外側三方に空堀、中央に水堀を構え、逆茂木を植えた。土堀の要所に櫓を建て、二段に設けた犬走りに狭間を開け、鉄砲の集中活用を図った。11月から始まった冬の陣で、真田丸に殺到した前田利常、井伊直孝、松平忠直、藤堂高虎らに周囲の銃眼から一斉射撃を行い、大打撃を与えて撃退した。

徳川方と一旦和睦。家康は和議条件を守らず、大阪城の総堀を埋め丸裸にした。

1615年:(大阪夏の陣)大坂方は大阪城を出て戦わねばならなかった。兵力の差は歴然としており、大坂方の武将は次々と討ち死にする。最後の決戦5月7日、信繁は’家康の首’を取ることだけに目標を定め、兵力を終結して大軍を引き受け、その間に別動隊を背後から奇襲させる。赤一色の真田隊は、敵中で「浅野殿裏切り」と叫ばせて、敵陣を混乱におとし入れる。その隙に家康本陣へ3度突き入ると、家康の旗本は逃げ散って、残るは家康のみ。「俺は死ぬ!」と叫んだ家康だが、すんでのところで徳川方が駆け付け、一命をとりとめる。すでに信繁は全身に傷を負い疲れ果て、四天王寺付近の安井神社で身体を休める。松平忠直らの兵が押し寄せ、決着した。翌日、大阪城は落城する。

 

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