今、考える生と光(三島由紀夫の死に関連して)

いろいろと大変なことがあり、毎日忙しく、でも体だけはなんとか元気。お金に追われ、夢と希望もないなと思いながら、その暗さがあるからこそ、向こうの方に光が見える。まわりが暗いから、光を追えるんですね。最近、分かってきたんですよ。三島さんの死というものを考えてみるに、三島さんは初期の作品のなかで、みずからの精神の暗さを吐露した。そして文壇で圧倒的注目をあびるようになり、時代の寵児となり、三島さんの身の回りから暗さというものは消えた。周りが明るくなってなってしまうと、自分自身は相対的に暗くなってしまって、その暗さはどんどん加速。臨界点を突破し、生から死への決断に至ったのではないか?そう思ったのです。

この憶測への障害は、三島さんの作品『憂国』です。2.26事件の後に割腹自殺した青島健吉中尉とその妻を題材に、死とエロスをテーマにした。三島自身も、〈小品ながら、私のすべてがこめられている〉と言っているのだからそうなのかもしれない。けれど、死とエロスと割腹自殺は私には到底理解できないし、そこになんの意味も意義も価値も、私には見出すことはできない。無理。

「才気に溢れた有能な作家」の三島が、「とてつもなく大きな錯誤の陥穽におちこんでいる」という古林尚の提言。「こういう小説は非常にくだらない」という花田清輝の断言等には大いに共感できるけれども、鎌田広巳が着目した、非連続性を超えることができない主知主義の限界)」を打ち破る「新たな原理的な可能性」は、単なる欺瞞の論理に見えてしまうのです。

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